牛の輸送は長距離に及ぶ場合がある。
日本では、東京都中央食肉市場で屠殺すると高額で取引されるという事情があり、南は鹿児島、北は北海道まで全国からトラックに乗せられ運ばれてくる。そうなった場合、長距離、長時間を牛たちは耐えなくてはならないことになる。休憩なしや渋滞なしでも16時間はかかる。
牛は一日60リットル、泌乳牛などであれば180リットルの水を飲み、暑い日であればより多くなる。そしてその分だけ排泄もする。牛たちは脱水やストレスに苦しむ。
本来であれば、常時水が飲めるトラックの設計が必要であり、弱い牛のためには定期的に手動で水を与える必要がある。そしてトラック運転手は、こまめに水を与え、糞尿を清掃しなくてはならない。
たとえ距離が短かったとしても、屠殺場に到着した牛たちの多くは、疲労し、口の周りには泡がついた状態であることが多くある。
屠殺場に到着後は、係留所に入れられる。短い綱で繋がれてしまうこともある。
牛はとても臆病な生き物だ。見知らぬ場所に連れてこられ、知らない牛の鳴き声と様々な機械音を聞き、何度も食肉解体所のほうを伺い、容易にトラックから降りようとしない。その怯えて動かない牛のしっぽを折り曲げ、繰り返し執拗に捻り上げ、副蹄や下半身を蹴り上げ蹴りあげ、無理やり歩かせようとする。700kg、800kgの牛を歩かせることはそれでも難しい。結局どんなに暴力をふるったところで、うまくハンドリングできない。
豚同様に、OIE動物福祉規約には牛がどのような性質を持っているのか、どうハンドリングすれば牛に負担をかけずにスムーズに牛を歩かせることができるのか、記載されているが、国内ではその規約そのものが周知されていない状況だ。
牛は日本ではキャプティブボルト(屠畜銃)を眉間に打ち、失神させ、片足を釣り上げて逆さ吊りにして、喉を切り裂いて失血死させる。失神は失敗することもあるし、首を切られてから意識を取り戻すこともある。これは豚も同じことだ。
屠殺場の改善の第一人者であるテンプル・グランディンの研究によると最高の状態の屠殺場でもスタニングの成功率は平均97%〜98%*1であった。別のある管理された屠殺場では1.2%の牛は足を釣り上げられるまでに意識を取り戻した*2。
別の英国の研究でも、1つの屠殺場では6.6%が、別の屠殺場では1.7%がスタニングに失敗している*3。2016年の研究では12.5%が不十分なスタニングであったとしており、特に若い牛は失敗する確率が高く16.7%が不十分なスタニングであった*4。
畜産動物の福祉は、日本はDレベル、英国はAレベルと日本は福祉が低い。スタニングの失敗率や屠殺場の福祉の研究が日本にはないが、推して知るべしである。
写真 L214
どの動物においても、屠殺時のスタニングは失敗されることが多々ある。鶏に至ってはスタニングすらしていない。福祉に無関心であることこそが、失敗率を上げ動物を苦しめる一番の要因である。
実際、屠殺場や関連当局の要請によりスタニングの失敗の原因や割合を調査した研究では、「最も事故の少ない屠殺場を管理する会社は、屠殺場の特定の要求に合致したスタニングシステムを採用し、経営者が動物福祉を特に重視していた。スタニングの有効性を監視し、継続的に改善することに関して、これらの企業は、実務スタッフ、技術者、アニマルウェルフェア管理者、獣医師、必要に応じて外部専門家(von Holleben 2009)の良い協力関係があった」*5という。
市民全員が改善と議論をするという責任を負っているはずだ。この社会が行っていることであり、ほとんどの人がこれまでに屠殺された動物の肉を何らかの形で口にしているからだ。
国はその議論をリードすべきだし、改善に取り組む良い業者を支援しなくてはならないだろう。屠殺業者は経営者、実務スタッフと共に、福祉を理解する努力をし、現状のシステムであったとしても改善できる部分を改善しなくてはならない。
さらに、機器メーカーは機械自体をより福祉的に改善していく責任と、効果を最大限に活かす使用方法を指導する責任を負っているはずだ。
獣医師はアニマルウェルフェアを勉強し直し、指導できる立場にならなくてはならない。
小売店やレストランなどは、その改善を支援し無くてはならないし、促さなくてはならない。
市民は小売店やレストラン、国に対して、改善を促さなくてはならない。
これらを揃えることは至難の業だが、それぞれの立場で、できることを始める、というところがまずはスタートだ。
写真 L214
*1 https://www.grandin.com/references/maintain.good.standards.auditing.html
*2 Grandin T. Return-to-sensibility problems after penetrating captive bolt stunning of cattle in commercial beef slaughter plants. J Am Vet Med Assoc. 2002;221:1258–1261
*3 Gregory N. Anatomical and physiological principles relevant to handling, stunning and killing red meat species. Proc Int Training Workshop Welfare Standards Concerning the Stunning and Killing of Animals in Slaughterhouses or for Disease Control, September 26–29 2006 Bristol. Available from: Humane Slaughter Association, The Old School, Brewhouse Hill, Wheathampstead, Hertfordshire, AL4 8AN, UK
*4 Assessment of Cattle and Pig Welfare at Stunning in Commercial Abattoirs, Sophie Atkinson
*5Identifying reasons for stun failures in slaughterhouses for cattle and pigs:a field study ,M von Wenzlawowicz*, K von Holleben and E Eser
テレビで屠殺に関するテーマが取り上げられることはほとんどありません。インターネットでこういったことを発信する方の存在が頼みの綱です。
しかし、私のように能動的に検索しない限り、閲覧し、感覚を育てることができません。
検索するような人は既に関心のある人でしょう。
テレビで取り上げられないのは、損をする人がいても得をする人がいない(得をするのは動物だけ)だからだと思います。
肉が食えなくなるからと、意図的に調べない人もいるでしょう。
構造として、発達しにくい分野だと思います。
何とか、多くの人が得をする構造を作れないものでしょうか。
1.動物福祉により社会が潤う何らかの仕組み
2.市民全員の感覚を育てる
2が充実すれば、市民は動物福祉の達成により得をすることになりますが、やはりメディアに取り上げられにくい、という堂々巡りです。
何か、1が達成される方法を見出すことができないものでしょうか、と思いながらも、無理だな、と思うこの頃です。
食肉も人間と同じ、痛覚を持った生き物。人間にあてはまることは当然動物にもあてはまる、私にとっては当たり前の感覚なのですが、そう考えられない人は本当に分かりません。殺傷と苦痛は全く別の問題、という感覚が育ってほしいです。
かつて人類は他者の苦しみに対して無神経だったが、現代ではここまで個人個人の苦痛を忌避することが当たり前になっている。それがなぜか動物にまで広がらない。これは種という絶対的な壁もありますが、思うことには、個人主義も結局はネガティブスタートなのではないか、人類は結局、損得で動いてきたばかりで、純粋に他を考えて何かを決定してきた経験が実は無いのではないのか、そう考えてしまうことがあります。テーマを少しずらしてしまいましたが、これからの伸び代次第で、人類の本質が問われるような気がします。
全く、その通りだと思います。
私が肉を食べるのは私の責任ではないと考えています。
肉が美味しいことは子供時代にテレビCMなど学校教育など
で親がそれを教えられてきました。
将来、私の子供が産まれたら自らで選択させるつもりです。それまでは動物を口にさせないつもりです。そして子供が動物が捌かれる全てを見た後、「これが食べたい」と言えば、私たちもその食生活を選択しようと思います。
ただ「信念」のいる行いです。活動まではできていませんが私自身、常に考えています。
漠然と思っていたことがすべて整理され書かれているように思いました。
自分にできることは、なるべく共感してもらえるよう、ささやかな糸口から、こういった話題を知人に対し提示することくらいしかありません。
畜産動物の殺され方など「見たくない、聞きたくない、忘れていたい」人ばかりですが、それでも知っている人間がたびたび何かの拍子にそのことについて話題に出すことができれば、完全に忘れていられる時間がぶつ切りになります。
それだけでも、ほんのわずかでも意味があるのではないかと思っています。
特に、犬や猫などペットを愛している人には、共感してもらえる可能性が、そうでない人よりもまだ少しは高いのではないかと思いますし、そのような人(単に飼っているではなく、家族として愛している人)の数はこれからも増えていきそうです。
ですので、未来においての動物福祉向上を諦めたくはないです。
確かに、人間は種としてはほぼほぼ損得で動いてきたことしかないと思います。なので時間はかかるのでしょうが、第二段階の人類進化として、どんな生き物にも感情や感覚があることを踏まえた上で配慮ができる人間社会を、人類が実現させることを祈っています。
食べる立場としては、命を食材に変える現場や方法を是非知っておくべきですね。
それらを知っているのと店先に並ぶ食材しか知らないのとでは、感じる有難みがまるで違うと思います。
もっとメディアで取り上げて欲しいです。苦痛を与えない方法がそれほど難しいことなのでしょうか?法で取り締まらなければ動かないなら法で規制して欲しいです。もっとみんな知って欲しいです。食べるなとは言ってません。人間だって動物なのだから。ただ、動物と違うのは動物に苦痛を与えないよう、尊厳をもって扱う事が出来るという事。それが人間らしさ。今のやり方は、知れば知るほどに動物だけではなく人々にも苦痛を与えていると思います。少なくともこのサイトを訪れるような人々はとても苦痛にさいなまれ、もがくようにここにたどり着いていると思うのです。発信してくださるサイトが多々あることを知り、勇気づけられます。これからも発信し続けて欲しいです。
何も出来ない自分の無力さが身に染みます。でも、ヴィーガンにはなりません。感謝をして食べることはできます。ただ、実際に家畜動物の苦痛を減らすために具体的に何をしたらいいか分からない。何が出来るのかも。
この記事を読んだみなさんはこのやりきれない気持ちをどのように処理しているのでしょう。心が押し潰されたようです。ふとした時に思い出してしまいます。
牛さんが大変な思いをして出産をしてすぐ子どもと引き離される。牛さんも豚さんも人間と同じ感情がある。出荷前は24時間以上食べ物も飲み水すら与えないなんて虐待です。屠殺場では泣きながら順番を待つなど自分に置き換えたらと思うと想像を絶する恐怖です。これだけ人類が進化しているのだからお肉の価格をあげてでも苦痛を与えない、同じ動物として命を尊重してあげる世の中になってほしいと切に願います。むしろ最先端技術で動物に変わるお肉(動物じゃない)を開発できたらなんて思うくらいです。ここの皆さんのコメントを読んで少しだけやりきれない気持ちが救われました。
人間は命有るのもを頂くしかないので、スーパーや食卓に食材が並ぶのも、それまての全てを行ってくれる人がいるからですよね。
これからも感謝して頂こうと思います。
本来動物の解体等自分でできなければ食べれないんだよなと思いました。
皮剥とかする講習とか受けてみたいなー
あまりに残酷です、酷すぎです、可哀想です。どんなに恐いか、どんなに、痛いか、こんな酷い事を人間がやっている事が、ショックすぎて悲しいです、自分も、肉を食べてます、
もう食べたくない、どうしたら、救えるのだろうか?なんとかならないのだろうか?これはみんなが見るべき知るべきだと思います、そして考えるべきです。せめて痛みがないように恐くないようになんとかして下さい、お願いします
コメントをしている方々がおっしゃっているように、とても伝わりやすくまとめてあったので、フリーペーパー『ぺったん』に文章を引用させていただきました。
垣根を超え、動物の命について考える人が増え、自分事のように他を思いやれる人が増えることを切に願います。
本当に申し訳ない気持ちになる。殺すにしても安楽死という手はないのか。命頂くお礼にせめてでも安らかに眠って欲しい、、残酷すぎる、、
私の家の実状として、全くの非課税世帯で子供と2人で暮らしていますが、何とかして動物達が酷いめにあわないようにと家計は厳しいですが寄付をしています。
寄付をする度に思う事は、動物達が苦しまずに悲しまずに生きることができれば寄付なんかしなくてもいいのに!
寄付しても、お肉、卵、牛乳を辞めても辞めても他の人が美味しそうに肉や卵やクリームたっぷりのスイーツとか食べているのを見てその人に対して腹立たしくなり、悲しんでもちっとも変わらない世の中に今は諦めの境地しかありません。
なので今は好きなスイーツ、カフェオレ食べて飲んでしています。
他に何か動物達にせめてもの苦痛を与えずに屠殺される方法は無いか考えました。
脳が死んだら痛みは感じないと思うのですが、ライフル銃で頭を打ってあげたら即死でその後の痛みなど一頭たりと感じる事は無いと思うのですができない事なのでしょうか?
今はそれくらいしか望みがありません。
人間だからといって誰がこんなことをして良いと決めたのでしょうか。
あの牛の優しい目が全てを語っている気がします、この食文化がどういうことか。
少しでも事実を拡散していくことが今できることだと思います。
私は昨年肉を食べるのをやめました。
食肉となる動物たちが、どのように生まれ、生き、殺されるかというイギリスのドキュメンタリーを見たからです。
Lucentという2014年のドキュメンタリーです。YouTubeで見られます。
日本にももっと代替肉や植物性のミルクや食品が浸透すればいいのにと、思ってしまいました。
動物の権利、命を守る、環境を守る、自分の健康を守ることにつながります。
感謝して食べるって何様?w 自分でぜひ殺してみてほしいです!
殺される動物を見てかわいそうだと思う気持ちは分かりますが、それが「おかしい」と感じた事は1度もありません。これも食物連鎖の一部なのですから。
人が安定的に生存するためには動物性のタンパク質は必要不可欠ですし、何より他の種よりも自らの生死を優先するのが動物としての本能です。
人は人道的な殺し方ではなく効率的な生産を研究しているのは、多くの食料を安定的に得るためであり、逆に安定して得られない場合は野生から食料を調達しなければなりません。この場合、その種の絶滅に関わる可能性がありますが、人道的な殺し方をして生産性を低下させる代わりに野生の種を絶滅させるか、効率的な生産を行い種の絶滅に関わらないようにするか、どちらが人道的かは誰の目から見ても明らかだと思います。
以前、屠殺場とその他の内蔵の解体などの仕事をしていました。
ここのコメントを見て気分が悪くなりました。
現場にも立たず安全なところからかわいそうなどと反吐が出ます。
ライオンが獲物をしとめるのに痛みの無いようになどと考えますか?
他者の肉を食らうのです。上辺だけの同情をするくらいなら美味しく食べる、残さず食べる
それだけでしょう。屠殺の現場なんて知る必要ないです。
現場を知ることで食欲がなくなるなら見るべきではないと思います。
私はウシを担当しましたがほとんど余すことなく利用されていました。
歯でさえきちんと一本一本抜いて利用されています。そういったことも知っていますか?
こんなの見たら、肉が食べられなくなる。自然と食べない選択をせざるを得ない。本能的に、病気の動物を食べたり、虐待まがいに近い環境で育って最後には残酷に苦しんで殺されて、そんな動物の肉を食べていたのかよ、、、そう思うと、本当につらい、吐き気がする。なにが「感謝していただきなさい」だ。虐待している人、ありがとう!これからも、よろしくお願いします!って言ってるようなものじゃないか。本当に悲しい。苦しい。怒り。どうしてこんなことを教えてくれず、食べ続けて何の疑問も持たずに大人にならなければいけなかったんだろう。
命を奪い血を浴びて切り刻む仕事は立派な仕事です。昔の武士や戦争に行った人も命を立つことが生きることっだったでしょう。漠然とした気分でお肉を食べてはいけないと感じました。メタンによる温度の上昇も食い止めなくてはならないし、私は鹿やイノシシなど山林や里に害のある野生の動物を食べていこうかと思っています。人間にとって生きるか死ぬか戦いですから。
この牛の悲鳴聞きながらステーキ食ってるわw
生命を維持する栄養素として食肉は必要だし、効率的な生産方法も種を存続・繁栄させるために必要。人間は食欲などの本能と、煩悩で生きるただの動物だと個人的には思ってます。
肉よりも美味しく効率的な食材が開発されれば、そちらにシフトするでしょう。でも今のところそうなってはいないから、私は肉を食べます。ただ、だからといって命が粗末に扱われて良いということではないから、食べるものの責任として、残さず食べる、無駄に買わないは心がけていきたいと、改めて思いました。
他者を思いやる動物に関して考えているものはありますが、一つも屠殺場で働く人たちを考えていないのでは。そもそもペットは良くて、屠殺はダメの感覚も理解できません。同情してる自分に酔いしれている様にしか思えませんね。ペットを家族というのも傲慢ですよ。あるべき姿を説くのであれば、時間をかけて仲良くなるものでは、かつ自由であるべきだ。
そもそもペットもダメだろう。ペットの餌だって家畜が原料だし、ペットも家畜も安楽死させとくのが生命倫理だと思うわ。
家畜は生命維持には必須ではないな。栄養学的観点からも必須ではないな。
必須となるのは魚。魚は魚食ってるし罪深いので食べてもいいとして、何の罪をも犯してない家畜に関しては生まれるまでコントロールしてるから生命倫理もクソもない。
家畜を必須前提と思う人は欲望に負けただけ
業界は国民の奴隷みたいなものだから、その存在はしゃあないよ。国民(国)の価値観を変えていかないと変わらない
よく牧場に遊びに行くのですが、そこで牛乳を作るのにどれほど母牛に負担を強いているか学びました。今思えばかなり優しい教え方だったのですが、個人的に興味を持って検索したところ、畜産動物である牛や豚たちの置かれている現状を知りました。わたしは肉を食べます。生き物に感謝をして生きています。しかし、のうのうと生きていて、何も知らない裏で、苦痛を与えられて殺されている動物たちがいるという現実があまりにもむごく、辛いです。ずっとそのことについて考えていると眠れなくなります。子どもたちへの教育にこういった現実が取り入れられたり、犬や猫を愛する人に現状が伝われば、必ず変わっていくことがあるのではと感じました。
人間の都合にかなう範囲なら、動物の権利を認めても良いでしょう。しかし、それ以上を私は認めない。
苦痛の軽減は大事です。少しでも安らかに眠ってほしい、そう人間が願っているのですから。ただし、今までと同様に美味しい肉が食べられるという条件付きです。
我々が動物の固有価値を一定認める必要があるのは、それが人間の豊かな生活を助けるからです。決して動物のためではありません。
人間は、人間の都合を超えて物事を決断することはできません。できるように見えても、実のところ全ては人間のエゴなのです。
そんな薄っぺらな慈悲心を、人間らしさに勘定してしまう思考回路は客観性に欠いています。
動物倫理という言葉を聞くたびに、頭を抱えたものです。そんなこと、人間にはできないのに。
できたとして、損をするのは人間です。
猫のために死ぬ人が尊いでしょうか…理解できない、悲しいことだとしか思えません(シチュエーションによりますが)。
人のために人が死ぬ現象は、遺伝子主体で考えれば不思議はありませんが、それでさえもハードルの高い(損しやすい)ことです。
それを動物にまでというのは…なにか宗教的なものを感じざるを得ません。
動物に対する感受性は、私もみなさんと同様に育んできました。
しかし、現実は残酷であり、その残酷をどう解決するかではなく、どう理解し、どう受け入れるかなのです。
なんかこういう話をする時に、畜産によって仕事を失う人がいて〜みたいな事を言い出す人がいるけど、当たり前だ。そういうものだ。
インターネット・スマホが出たせいで、なくなった仕事なんていくらでもあるよね。それでも、それを使うのが「良い」と思ったからの今の世の中であるだけ。
そして今回のトピックも、辞めた方が「良い」と思う感情は、こういう記事を読んだら一層芽生えるはず。そして、そう思う人が実際は大半であると信じてる。
だから、時間はかかると思うけど世界は変わっていく。
ちなみに、全ての物事に対して「良い」とか「悪い」とかの定義は存在しませんよ。でも毎回どっちなのかは自分自身が一番よく分かっていますよね。人生はそのふわふわした「良い」か「悪い」かの感情の選択の連続で出来上がっています。そして今の世の中の人は、この「悪い」ことしてしまっている感覚は持っているはずです。目を背けないで生きましょうよ。
肯定派はまるで肉を食わなくちゃ人間が生存できないみたいな言い方だけど、ちげーから。ただの贅沢だから。
別に栄養だって今の時代は他の方法で取れるわけで。
肯定派の連中は毎回揚げ足取って、どうにか肉を食べ続けられないか必死すぎる。
どうやら私は旧人類の器に過ぎないので、「これを回避するのがそんなに難しいか?」と問われても、「はいそうです。肉食べます」としかならない。
さぞここにいるマトモな人間たちはいい方法を考えついてるんだろうな。
理解くらいなら私にもできるかもしれない。教えてくれ。
閲覧しました。どうする事も出来ない自分がもどかしい。ただのペットすら、まだモノの時代。。愛犬が、動物実験のように殺されても、経年劣化はどのくらい?と弁護士に尋ねられ、あーぬいぐるみと一緒なんだと、痛感しました。食肉を食べている自分は、我が子が同じ目にあったらと思うと、口にするのが怖くなってきました、、、。涙が止まりません。