東京郊外でアニマルウェルフェアを訴える、パネルアクションをしたときのことです。駅前の人通りから良く見える位置にパネルを置くと、さまざまな人が通りすがりに足を止めてくれます。
ふとそのなかの一人の男性が、鶏のパネルの前で足を止めたまま、その場を動かなくなりました。なんとも複雑な表情を浮かべて写真を見つめる表情は、怒っているのか悲しんでいるのかわかりません。そのうちに男性は静かに話し始めました。
「とても残酷なことだよ」
「そうですね。畜産は動物にとってとても過酷なものです」
「いや、動物だけじゃない。業者にとっても畜産は残酷なんだ」
そして男性は養鶏業を営んでいた過去を話し始めました。
「父親が小さな養鶏場をやっていた。子どものころは卵が貴重で、それがたくさん食べられるんだから、ウチはいい商売をやっていると、子ども心に思っていた。あの頃食べた卵かけご飯は最高だったよ。友達にもうらやましがられたもんだ」
「いつぐらいの話なんですか?」
「昭和30年代だった。そのころは普通に地面で鶏を飼っていた。親父が養鶏を始めたときにはバタリーケージなんてものはなかったんだ。そのあと昭和40年代にウチもバタリーケージになった。たしかに狭いオリだとはおもったが、別段かわいそうだとはおもわなかった。こういうものだと思っていたし、自分は学校へ行っていたから、親父の仕事は継がないつもりでいた。家業といっても少し距離をおいて見ていたんだ」
「養鶏の初期からよくご存じなんですね」
「いや、よくは見ていなかった。最初のころは卵がたくさん食べられてうれしいなんて、のんきなことを考えていたが、そのうちに卵の価格が下がって、売っても売っても生活が苦しくなった。家の暮らしが急に苦しくなって、鶏に同情するなんて気持ちにはならなかった。かわいそうなのはこっちだよ。最後には鳥インフルエンザがおきて、養鶏ができなくなった。病気の鶏は1羽100円にしかならず、自分は学校をやめなくてはならなかった。親父が傷心でもうやらないというから、学校をやめた自分が養鶏を継いだんだ」
「自分が働くようになってから、鶏の飼い方がおかしいとおもうようになった。狭いところでかわいそうだし、死んでいくし。親父に言ってもそれはそういうものだという。それで3年やったところで養鶏はやめたんだよ。経済的にも、鶏の命のことを考えても、これは仕事として続けられないとおもった。しかし長く養鶏をやってると、かわいそうとかおもわなくなるんだな。でもおかしいとはみんなわかってる」
「このパネルを見て、鶏もかわいそうだとおもうが、養鶏業者もかわいそうだと思う。それをどうしたらいいんだろうか。解決方法はあるんだろうか。この運動をしてる人たちはどう考えてるの?」
100%完璧な養鶏はないし、完璧な解決策もおそらくはない。ただ一つ言えることは、養鶏業者だけが問題を抱えこむのではなく、社会全体でこの畜産の矛盾を受け止めていくことだと答えて、工場畜産をやめるためのチラシを渡し、動物の生態に配慮した飼育を進める世界的な運動がアニマルウェルフェアだと説明しました。
「そういう話はむかしはなかったな」というと、男性はチラシを大切そうに鞄にしまってくれました。
自分の意志で養鶏業をやめた男性は、いま初老に差し掛かって見えましたが、おそらくずっと充実した幸せな人生を送ってきたのだとおもいます。でなければ、養鶏をやめたことを後悔しているはずだから。
現在、養鶏にかぎらずすべての畜産業者が、辞めるか続けるかの瀬戸際にいるといいます。毎年が細い糸の綱渡り状態だから、動物へのおもいやりを形でしめすことが難しいのだと、多くの業者に言われるのです。もちろん辞めることも一つの選択ですが、続けるのであれば、どういう畜産なら10年後、20年後にも自分や自分の後継者が続けていられるだろうと想像すると、答えは見えてくるのではないでしょうか。